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アレが7人兄妹のうちの一番下の子で45歳のとき持ったんだ。一人前になるときはオラは60すぎで
たくさんの、ばあさんで生きているかもわからないと思うと悲しく、かわいく、悲しく、無邪気に遊んでる
姿見ると涙がでできた。
不憫な想いだけはさせたぐねと思って小学校さあがるとぎ店屋がら新しい靴下買ってやろうとしたら
いらね、オラ、かっちゃが編んでくれた靴下がいい、と言うんだ。
アレはあんなにちっちゃくても家の事情は解っていだんだなと、そいでも今時、
中学校さ出さねばと・・・あの年はやませが吹いで凶作となり
米が不作だし収入がなくて難儀したんだが、食用菊背負って汽車さ乗り八戸の湊まで行って
売りさばけば帰りは鰯を買って背負ってくる。
鰯はこっちでは珍しいからこれまたすぐ売れるんだ。なに?たいへんだったべって?
確かに一所懸命だった。苦労といえば苦労だったが今思えばそれも生きて来た流れの一場面だ、どごの
家でも同じ、みんな貧しかった。
中学校を終らせで東京さ働きさ出してやたんだが・・・・夏のぬぐい盛り、田の草取りしてでも暑さで倒れで
ねが、冬のこがらし吹げば手編みの靴下を送り離れて暮らす身の心配、顔見たくても仕事で忙しいから
今年の盆には帰れないと言う。
かあさんが倒れたすぐ帰って来いと長兄から電話があり
その日のうちに会社の残務整理を済ませた私は新幹線の中で
母が編んでくれた靴下の夢をみていた。
故郷を離れて幾年月、働きながら定時制高校を大学は通信制産能大を卒業、宅建取引の資格を
いかし不動産業を開業、当時はバブルの絶頂期、みんな泡に踊されているのが解らずにいた。
そうだ、田舎の母を呼んで東京見物でもして親孝行のまねごとでもしよう。
私はそういえば、故郷のことはあまり考えないことにしていた。
考えてもしょうがないことであり、今の自分が成功することが故郷へ恩返しすることであり
母への親孝行だと思っていた。
しばらくぶりに駅で会った母は腰がまがり、それでも手荷物をいっぱい持ち
最初は皺くちゃな顔をほころばせていたがやがて、そのちいさい目から涙を流し
このバカタレが一回も顔みせねで おまいが、こっちでよぐ暮らしているのはいいことなんだが・・・・。
駅の構内の人ごみの中で母は私の手をにぎりおいおいと涙をながす。
私もところかまわずおいおいと泣く
毎年かかさず母が送ってくる手編みの靴下のことを忘れていた。
たんすの奥底に眠っている靴下、緑やら赤とピンク、黄色、青、色とりどり
この靴下は何十にも重なりやがて日のヒカリを浴びてきらきら舞う蝶々のよう
母の背中はおんぶのぬくもり。うれしくて、たのしくて
私は野の花に舞う蝶々のよう。
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